「勝ち組」なんて言葉を、最近良く耳にする。
勝った、負けたの観点から見れば、私は明らかに「負け組」だ。自分が、男の器をあてがわれた哀れな女だと知ったあの日から 15 年、私は、女であれば当然享受できるはずの権利を一つとして与えられることは無かった。思春期という多感な時期を、もがき苦しみながら生きてきた。恋愛も何もできなかった。
知的欲求を満たすべく、数学に傾倒した。しかし、研究の道には進めなかった。社会に出て、ようやく平穏な日々を手に入れた、と思っていた私に待ち受けていたのは、自律神経失調症。激しい鬱。パニック。仕事は手に付かなくなった。
自分を見つめなおす療養の日々。自分に嘘をつくことを止めた。性別違和と向き合うことを決意した。だが、その性別違和ゆえに、仕事は長期離脱を余儀なくされた。
心と器の食い違い。ただそれだけなのに、それがゆえに、私は、他の人と同じように生活することすら許されない。これを負けと言わずして何と言おう。
…いや、「人生」というゲームの、半分も終わらぬうちから「敗北」などという言葉を、軽々しく口にしては、先人達に申し訳が立たない。
私は高校のとき、テーブルトーク RPG に傾倒していたが、それに例えるならば、私はまだ「私」というキャラクターを、演じ切っていない。まだこのゲームを、十分に楽しんでいない。
これからでもいい。もっと「人生」という名のゲームを楽しみたい。偽りの平穏はいらない。心涌き踊る刺激が欲しい。幸い、私の知的好奇心は、止まるところを知らない。このゲームに飽きることは、おそらく無いだろう。
そして今際の際に、胸を張ってこう言ってやるのだ。
「私の『人生』は、とても楽しかった。」と。
「人生」が、幸せである必要は、きっと無い。